街角募金の醜悪さ
「ジョン、それは街角募金ですか?」
「いいえ、マイク、それは2○時間チャリティーです」
「では、あれは街角募金ですか?」
「はいそうです、ナニが彼女の公開オ○ニーです」
「わかりました。アレはとてもカッコイイですね」
「そうです。彼女の父もナニがよいと言っていました」
この世でもっとも醜悪なもののひとつ、それは街角募金。
いいか、オフィーリア、募金と善意とは決して仲良く出来ぬ。もしそのふたつを心から仲良くさせたいと思っているのであれば、職場へ行け職場へ!
これに関する私の見解は、働け。ということである。
10人が2時間そこに立っていたとしよう。
夜のお仕事をすれば、5000円くらいになるのではないか、2時間は。となれば、10×5000。5万である。
そして、おねーちゃんが募金のお誘いをすれば、うまくいけば「おお、関心ぢゃ」と1万くらいは客が募金するだろう。別におにーちゃんがホストやってもいい。その場合は、「あらあ、あなた関心ねえ」と客が募金するだろう、1万くらい。
そうすれば10人が毎日ひとり募金を集めたとして、10万。足して15万。
365日恵まれない子どもたちに10人が2時間ずつ使ってやれば、5475万は募金できる。
3650人と10人の有志のおかげて今年も5475万円分の寄付ができる。
これなら話はわかる。むしろ、多少、私だって出してもいい。でも、まあ、1000円が限界だ。
有志10人の熱意が直接的に1825万。その熱烈なシンパたち3650人が3650万。
それならば、私はせいぜい1000円であろうな、とそういうことである。
私は元々ボランティア精神が皆無なので、このモデルのターゲットですらないが、それでもそんな組織があれば、1000円は出す(国内限定で、寄付の対象が納得できるものだったらもうちょい出すかも)。
その活動をWEB告知(無論、作業は客のWEB製作会社社長の善意である)でもすれば、もっと出す人間は現れるだろう。
無論、職員の給料などは1銭たりとも認めない。100%(口座手数料は銀行にでも寄付させたらいいんじゃないかな)募金先に行く。という前提条件で、だ。
善意を他人に呼びかけるのであれば、そのくらいはしてしかるべきだ。
それが出来ないのであれば、つまり、実は報酬をもらっていたり、ナンチャッテ善意であったり、自己啓発だとかのために軽々しく大声で偽善を訴えるな。
反吐が出る。
ああ、つまり、私は街角で善意を大声で押し付けてくる輩には1円も出す気が起きないのだ。
とは言え、この考えは正直、私も私以外が言っていたら、不快になるwww
そのくらいむちゃくちゃな要求であることは自覚している。
だが……っ! 募金がもし善意のカタマリであれば……っ! そういうことだって可能……っ! あるいはありうるかもしれない……っ! 不可能なことではない……っ! 現実的ではないかもしれないが……っ! 可能か不可能かで言えば可能だということ……っ!
もし善意というのであれば、少なくともなぜかそれによってご飯を食べている職員が存在することは120%NGである。
ゆとりがない人間が他人に施しをしようなどとはおこがましいにもほどがある。
単なる善意っぽいものの装飾品に身を包んでいるにすぎない。
そうだ、○グ○ス、おまえのことだ(怖いのでいつもより伏せ字率は高めですwww)
もちろん、マグヌス効果のことである。ピッチャーの球は浮かない。けれど、浮くと言い張るその姿勢が嘘ではないか、と言っているのだ。決して、豪華な御殿は関係ない。サヨかぶれた糞思想も関係ない。ロリ幼女なんて微塵も関係があるはずがない。
いや、無理だ。
私はヤツは大嫌いだ。そもそも、日本来るなよ、レベルで嫌いだ。R4と同程度には嫌いだ。
当たり前であるが、異物がコミュニティに入れば警戒される。
実際には当然のことである。私は東京人ではない。故郷はいまもある。だが、私は東京で暮らす。当たり前だが、東京を愛する気持ちは持っている。嫌なところもあるが、便利さや、人間関係も含め、東京が好きだ。
これがどうであろうか、東京のネガキャンを私がしていたとしたら。会う人に東京は糞ですね、使ってやってますが、と語り続ければ、どうなるであろうか。
きっと私は批判を受けるであろう。そもそも理由もなく東京は糞ですね、を連呼している段階で相当にアレだが。
なにか目的がある。だって、嫌いなら帰る場所があるじゃないか、とだれでも考えるだろう。
異物は異物として、ことさら発言には気をつけるべきだ。それに気をつけないのなら、おかしな誤解を受けても仕方ないのである。コミュニティとはそういうものだ。権利を有するだとかいうことは、コミュニティではなんの役にも立たない。
ただし、おかしな言動をしていないのに、地方出身者をいぶかる行為はNGだ。それは心の中にだけ留めておくべきことだ。
態度に出すことは、多少でも態度に出すことは許さん(BY地方出身者)。
「人が多くて嫌ンなるねェ(でも、東京は便利)」
「街が汚くなる一方だァ(でも、東京は好き)」
つまりまあ、これはレイシズムについての話である。じつに身も蓋もない。
レイシズムはたしかに悪だが、レーゾンデートルがないところで意味不明なことをほざく輩は排除でいい。
それは差別などではなく、害の除去である。害を拒否する権利は誰にだってある。
いや、いつものことだが、横道だ。この件はまたいずれ愚痴ろう。
必殺魔法、閑話休題。
要は訴えかける手段としては、テレビや新聞やWEBに募金代わりに掲載してもらった方が早いし、手数料などの処理は関係機関に募金代わりにやってもらうのがいい、ということだ。国を動かしてみてもよいのではないか。
どうしてそういった大きいところを攻めずに、街頭というとんでもなく地道な方法を選ぶのか。
それは安易だからである(直球)。
つまりは、だれでも他人に募金を訴えかけられる。資格もスキルもいらない。善意だけあれば、いいことをした気になれる。その程度のものであろう。
宗教の勧誘ではないのである。
きちんとメリットなり、大義なりが説明できるのであらう? であれば、情熱などではなく、効率を求めるべきなのではないか。いや情熱は情熱で必要だろうけど。
できることからコツコツと、はたしかに是だが、できることだけコツコツとでは、いつまでもなにも為せはしないだろう。
募金は額である。200万必要なときには、100万人からの100万円よりは、3人の300万円のほうがよいに決まっている。
余裕がある立場から100万人という人数の方が嬉しい、などと言ってしまいそうな輩がいるから恐ろしいが、そもそも足りていないのだ。前者の方がいいわけがないだろう。
このそもそも足りていないというのは募金については重要なことで、募金自体がこの世から消えたことはおそらくないだろう。今日もどこかで誰かが募金を求めているのだ。
つまり、募金が足りる瞬間などまずやって来ることはない(じつはやってきているが、職員ガーなどとさすがに妄言全開な屁理屈がいったん頭をよぎったが、さすがにないだろう)。
従って、額は多い方がいい。欲を言えば十全な額が集まればいい。なら、本当に大きな額を集める計画が必要であろう。
募金が足りない、募金を続けるとは、要するにいまも誰かを救いそこねているということで、未来も必ず誰かを救いそこねることになるということだからだ。
だが、やっていることは街角で声を張ることである。計画性もなく、ただ善意を、道行く人々にいびつな善意を投げつける。
しかして、その本部は計画的に職員を置いて、計画的に事務所を作り、組織を大きくすることには余念がない。
これはもう不快感や不信感を持ってくれと言っているようなものだ。
つまり、街角募金とはなにがしたいのかすらわからないアンドロギュノスである(じつに知的だ。ここ、褒めていいですよ)。
もしくは、善意と悪意のキマイラとも呼びうる(華麗な表現の打ち回しだ~!)。
ここでポン。起家、ここは手堅く抑えに入ります。
はい。
善意はいい。ただ、呼びかけるなよ。
呼びかけるのであれば、まずはそれなりに身を切っているところから見せろ。いきなり善意の強要を投げつけられても、不快になるだけである。
こんなもの、「えらいわねー」などと言っている輩がいるから問題なのだ。
本当に必要なら、さっさと寄付や募金を当然の習慣にしてしまえば、不快な街角募金もなくなるだ。100%金の行き先を示せない、怪しいものだけが街頭に立てばいいのだ。
そして街角募金が侮蔑の対象になり、金をそこに放り込むものをマヌケと呼称する。
じつに素晴らしい世界だ。
まあ、つまり、黒柳徹子は募金のハイエンド、とそういう話である。
そこまでいけば、私とてことさらに批判するつもりはないのである(好きか嫌いかは別だが)。