スーツが苦痛
私は服に金をかけない。
ここ4、5年は年間で4、5千円使ったら、今年は使ったなあ、と実感するレベルである。
スーツが一般的、みたいな風潮、どうにかならんものか。
私は自宅では浴衣か甚平で過ごすことが多いわけであるが、これだって爺さんからのもらいものたちと、1着1000円くらいのものである。
10年くらい前のTシャツだって、私の中では現役である。
だが、客先となるとそうもいかぬ。
ネクタイはとてつもなくキライなので、年数回しか結ばないが、それでも機会はある。
迎合、というやつである。
カケラも着たくないものに身を包み、カケラも言いたくないことばを発し、カケラも行きたくない場所へ行く。
私の価値はスーツに置かれているのだろうか。もってるやつなんて、せいぜい4、5万だったはずだ。
いや、1万だろうとスーツなどに払うには途方もないほど高いが。
逆にマンガや小説にはいくら払ってもなんとも思わない。
月2万だろうが、3万だろうが、欲しいものがあれば欲しいだけ買う(そんなにないけど)。
まあ、これは完全に私サイド敗北確定の戯言である。
私だって、Tシャツ短パンで営業にやってくる○日新聞とかがいたら、即本社に電話をかける。
ナメてんのか、と。
つまり、まあ、私にも同じ考えが適応されるわけである。
おまえにはさして価値を見いだせぬ、従ってスーツを着て来い、と。
ひとの価値を上げる、という考え方は基本的にはキライであるが、まあ、ここはやむをえまい。
そのくらいはわかっている。わかっているが、わかっている上で嫌だ、と言っているのだ。
おお、ここ数日の愚痴という名の社会的、思想的更新よりはよほど愚痴っぽくなってきた。
そうだ、これだ。
これが日本よ、これが愚痴だだ。
負けていいのだ。愚痴なのだから。むしろ愚痴るところですでに99%敗北濃厚なのである。残り1%は毛利家的思想である。
私は真田幸隆・昌幸(申し訳ないが脳筋信繁はノーサンキュー)、毛利元就、松永久秀、斎藤道三的なものが好きである。藤堂高虎的なものもなかなかそそる。見事な信長の野望脳である。
が、江戸時代の毛利もなかなか残念で、別の意味でよい。
敗北確定でも「時期尚早である(=いいや、まだ負けてない)」。じつに見苦しくていい(あれは俗説ですよ、信じないようにwww)。
すなわち、俺が負けを認めるまでは俺負けてねーし! という極めてDQN思想である。
何度も言うが、私は根本的にはDQNの糞野郎なので、それについては私に対する罵りにならない(いや、反論も怒りもするけど)。
よし、話を戻す。
スーツは礼儀だ的なこともまあ、あろうかとは思う。それを理解できぬほど社会的動物を捨てたわけではない。
ただ、それでも、である。
私はスーツを着た私などには価値をおかぬ。その私がスーツを着て人前に現れるということは、そこに対する服従の姿勢である。
とまで強い断定ができるかどうかは微妙だ。毎回毎回、スーツを着るたびにぐぬぬ……しているわけではない。
ただ、まあ、要するに、今日これからスーツを着たくない、というだけの話である。
我ながらじつに身も蓋もない。
2013年9月13日 カテゴリー:俺の愚痴 タグ:かと言って信之もノーサンキュー, 服装は自由です, 駄々